毎日が誕生日

知人の誕生日祝いにリクエストされたものです。

 とっぷりと日の暮れた時刻。一定間隔で設置された街灯の明かりに生み出された薄い影が伸びる中、コツ、コツと規則正しい足音だけが響く。
 深夜と呼ぶにはまだ早く、しかし、居並ぶ家屋から家族団欒の賑やかな談笑が聞こえてくるには少し遅い。
 ましてや、この辺りは住宅街とは言っても少し外れの方にある。今夜のように帰宅が遅くなった夜は、ひっそりとしているのが常だった。
 ここ最近の連日に及ぶオーバーワークに身体が微かに悲鳴を上げていたが、端からはそのような様子を微塵も感じさせることなく、男――イギリスはピンと背筋を伸ばして、家路を進んでいた。
 毎年のこととはいえ、先月後半から今月頭にかけてはほとんど仕事にならなかった分、その埋め合わせのため、超過労働せざるをえないのは、誰のせいでもなかったので、イギリスは文句一つ言わずに仕事に没頭していた。だが、その終わりの見えなかった仕事にもどうにか目処が立ってきた安堵感もある。今夜は久しぶりにゆっくり寝られそうだと思うと、少しだけ歩調も早まった。
 きぃ、と少しだけ耳障りな音を立てる門扉を押し開き、イギリスは己が屋敷の敷地に足を踏み入れた。
 しかし、数歩進んだところで、微かな違和感を覚えたイギリスの眉間に皺が寄る。
 それはドアに手をかけて、疑いようのないものへと変わった。

 誰かいる……?

 室内に感じる人の気配。
 見知らぬ物ではなかったが、何故、という疑問は拭えない。
 懐から鍵を取り出すことなく、ドアはイギリスの手に依って押し開かれた。
 リビングルームから漏れる光と音。
 鍵は掛け忘れることが少なくないイギリス自身のミスだとしても、泥棒ならばなんと大胆な輩だろうか、と小さく溜息を吐き出した。
 勿論、侵入者が泥棒などであるはずがないことは、他の誰よりもイギリスが確信している。

「おい、」

 つけっぱなしのテレビ。
 ドア越しに漏れていた光と音の正体はこれであろう。その前で、だらしなくソファに身体を投げ出している男を見下ろして、イギリスは尊大に声をかけた。

「起きろ、スペイン」

 テーブルの上には自分で持ち込んだのであろうワインとツマミが乱雑に散らばっていた。
 グラスが二つあるところを見ると、一応、自分の帰りを待っていたつもりかもしれない。無意識のうちに、イギリスの口許が微かに緩んだ。

「ん……」

 もぞりとソファの上の体躯が動く。
 ゆっくりと押し上げられる瞼の下から覗く瞳に映し出される自身の姿。
「あれ、イギリスやんか」
 おはよさん、ともごもごと口唇が動く。
「いつ帰ってきたん?」
 数度、瞬きを繰り返したスペインはふわぁと一つ大きな欠伸をしてから、身体をゆっくり起こした。
 悪びれる様子の一切ないスペインにイギリスは毒気を抜かれたように、くくっと笑みを零す。
「イギリス……?」
「それより他に言うことあんだろ?」
 スペインを見下ろすイギリスの表情は陰になっていて伺えない。
 ん?と僅かに考えてから、聞き慣れた皮肉気な口調に隠れたもう一つの慣れた感情に思い至ったスペインはへらりと太陽のような笑みを浮かべて、イギリスを見上げた。

「お帰り、イギリス」

 何してた。
 どうやって入った。
 何しに来た。
 尋ねるべきはあれこれあったけれども、そのどれにも答えていないスペインの言葉に、けれどもイギリスは満足気に笑って応えた。

「ただいま」

 スペイン。
 背を屈めて、頬に触れるだけのキスを落とした。

「で、」
 スーツの上だけを脱ぎ、ネクタイを緩めただけの格好でソファに腰を下ろしたイギリスは、手渡されたグラスの中身を呷るようにように飲み乾してから、横のスペインに視線を向けた。
「どうしたんだ」
 連絡もなしに来るなんて珍しい、とか、どうやって中に入ったんだ、とか、尋ねるべきことは幾多もあったのに、結局、イギリスの口から零れたのは論理性の欠片もない曖昧な疑問が一つ。
 会議のときの彼しか知らない国が見たら驚くに違いなかったが、付き合いの長いスペインにとっては、特に違和感はない。
「あんな、」
 自分の分のグラスを揺らしながら、スペインは目を細めた。
 紅い液体に映る自身の表情が愉しげなのを見て、さらに口許が緩む。
「誕生日祝いしたろ思ってん」
「……は?」
 曖昧な問いかけをこの男にした俺が悪かったのか、反省と自嘲と、そして拭いきれない疑問符を浮かべたイギリスがたっぷり一分はあったかと思われる沈黙の末に漏らしたのは、何とも間抜けな疑問符だけだった。
「だから、」

 誕生日祝いしたろ思ってん。

 そんなイギリスにスペインはやっぱり満面の笑みを返すだけで、グラスの中身に口をつける。
 慣れ親しんだ甘味が口中に広がる。
「……誰のだ?」
 搾り出すようにして、漸く吐き出されたイギリスの声。
「誰やと思う?」
 愉しげなスペインの声。
 何の気紛れかは分からないが、一種のゲームのような物と思えば、負けるわけにはいかない。
「俺の記憶が間違っていなければ、お前の誕生日は随分前に終わっていたかと思うが?」
 生来の負けん気を取り戻したイギリスは、少しだけ己のペースを取り戻して、僅かな余裕を含んだ発言をスペインに返した。
「せやで」
 スペインは動じた風もなく笑う。
 余裕を崩せないことが少し悔しくて、イギリスは、スペインの首筋を指先でなぞる。
「あのときはたっぷり祝ってやったつもりだったんだが、」
 あれでは足りなかったか?
 耳許で情欲を混ぜて囁きを落とすと、スペインの頬が少しだけ紅く染まる。
 それを見て、イギリスの表情も緩んだ。
 時計は見ていないが、そろそろ日付が変わる頃だろう。こんな時刻にいるのだから、当然スペインは今夜は泊まっていくつもりなのだろうと思うと、ここ最近の忙しさで忘れていた熱が自身の内に籠もるのが分かる。
「いややわ、イギリス。気が早いて」
 しかし、スペインにその気はまだないらしい。
 まだ、というのはイギリスの願望が混じった評価だったが、そのことをイギリス自身は気づいていなかった。
 もう少し、スペインの気紛れともいえるゲームに付きあう必要があるらしいと感じて、イギリスはやれやれと胸中で一つ溜息を零す。
「ベルギーか?」
 あと数時間もしないうちに彼女が誕生日を迎えることをイギリスとて知らないわけではない。当然、夕刻からの晩餐会には出席する予定でスケジュールは組んでいた。
 それは目の前にいるスペインも同じはずだったが、特にこの男と彼女の間には古い繋がりがあったから、個人的に祝いに行ったとしても不思議ではないかと思い返して、イギリスは少しだけ眉根を寄せる。
「だったら、ウチなんかに来てる場合じゃないだろう」
 明日になれば、式典だのなんだのでベルギーも忙しいに違いないのだから、そう続けようとしたイギリスの言葉はスペインの苦笑で遮られる。
「なんでベルギーの名前が出てくんのや?」
「は…?」
 なんでって…。
 きょとんとしたイギリスの、それでも寄ったままの眉間の皺を解すようにスペインは、しゃぁないなぁ、と頭を撫でた。
「なっ…!」
 子ども扱いとも取れるその仕草にイギリスが焦って、手を振り払ってもスペインは気にした風もなく笑みを崩さない。
「ベルギーのお祝いは明日ちゃんとしたるわ」
「……だったら、ポーランドか?」
 苛立たしげに紡がれた名前にスペインは、やれやれともう一度、イギリスの頭を撫でる。
 今度は撫でるというよりは髪をかき混ぜるといった方が良い程度に少し乱雑な手つきだったが、それでも傷つけるつもりがないのは指先の動きから伝わってきて、イギリスも今度は撥ねつけようとはしなかった。
「しゃぁないなぁ」
 イギリスはほんまに。
 先程とは逆にスペインがイギリスの頬に口唇を寄せる。イギリスの口唇に触れるか触れないかギリギリのところに触れる柔らかな感触。性的なものを一切含まない親愛の印。
「イギリスのとこに来て、なんで他の国の誕生日を祝わなあかんの?」
「だが、俺には…」
 イギリスの表情が曇る。
 紡がれなかった言葉の続きは、スペインにも容易に想像がついた。
「あんな、」
 イギリスから視線を外し、掌中のグラスを揺らす。
 中身の少なくなったワインは、それでもたぷんと小さく波打った。
「俺らって、国やろ」
 何を今更、とイギリスは思ったが、口を挟まずに続くスペインの言葉を待つ。
「国民一人一人が俺らを形作ってくれとるわけで、皆がおらんかったら、俺らの存在ものぉなってしまうやろ」
「それは…」
 確証はなかったが、恐らく間違いないだろう。そもそもスペインはイギリスよりも長い歴史を生きてきている。実際にそうやって消えていった国を幾つもこいつは見てきたのだろう、そう思うと、何が言いたいのかはまださっぱりだったが、余計な口を挿む気にはなれない。
「せやから、国民一人一人の誕生を毎日祝ってもええんとちゃうん?」
 な。
 同意を求める声にイギリスは素直に頷けなかった。
 しかし、そんな無茶苦茶な理屈があるかと笑いとばしてやればいいのに、表情筋が固まってしまったみたいにピクリとも口を動かせない。
 そんなイギリスの様子にしてやったりとばかりにスペインは満面の笑みを浮かべて、顔を寄せた。



 iFeliz Cumpleanos.



 彼の国の言葉で告げられた祝いと一緒にスペインの口唇がイギリスのそれに重ねられる。
 甘やかな感触を感じながら、イギリスの耳には、ボォォンと大広間の掛け時計が十二時を告げる鐘が響いていた。



 Happy Birthday to you.



 口唇を離したスペインがもう一度、今度は癖のある発音で囁いたメッセージに、イギリスはひそりと笑う。
 そして、耳許でthank youと紡いでから、目の前の男の身体をゆっくりと抱きしめた。