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寄稿再録。

 異議ありっ!

 ぴんと張り詰めた空気を切り裂くかの如く、小法廷に男の声が響く。びしりと突きつけられた人差し指に呼応するかのように、ざわめきだす聴衆。
 重厚な扉を静かに押し開けると、そこは通常と様相を異にした情景が展開されていた。
 否。
 この法廷に限って言うならば、これは見慣れたものに違いない。あの男が担当弁護士である以上、粛々と進むということは、恐らくこの先もありえないのではないだろうか。
 ある種、確信めいた、自信を持って断言するのが情けないような思いに軽く溜息を零す。
 だが、ただそれだけ。
 あの男は、それでいいのだ。
 それでいいのだ、と胸中で誰に告げるわけでもなく繰り返した。
 そのまま、傍聴席には着かず、ドアに凭れるようにして立って、成歩堂を見る。当然、ここからでは横顔しか見えない。普段よりも幾分、本当に僅かにだが、凛々しく見えるその横顔を見つめて、御剣は無意識のうちに拳に力を入れていた。
 彼の横には、相変わらず良く見知った少女の姿がある。
 ふと、何かを囁くように少女の顔が近づけられた。それに答えるように成歩堂の上半身が微かに傾く。
 真正面の検事に向けられていたであろう厳しい眼差しは、幾分か和らいで少女を映しているようだった。
 きちり。
 唐突に言いようのない痛みを胸に覚える。
 っ……。
 痛みと呼ぶには大袈裟な疼きから意識を逸らすように、御剣は反対側の席に視線を転じた。
 見覚えのない検事の姿に分かっていたつもりの月日の経過を否応なく突きつけられる。決して、日本を離れたことを後悔しているわけではない。少なくとも後悔と呼ばれるような感傷は欠片もなかったが、それは郷愁とも呼べるような一抹の不安。
 かんかんかん。
 裁判長の振り下ろす木槌の甲高い音に、意識が目前で繰り広げられる攻防に引き戻された。
 相変わらず心臓に悪い弁護が続いていたが、どうやら形勢は大きく弁護側に傾きだしているようだ。本人すらも気づいていない程うっすらと安堵の笑みを口許に浮かべると、裁判の終了を見届けることもせずに御剣怜侍は足早に法廷を後にした。
 ぱたん。
 静かに閉められたドアの音が聞こえたはずもなかったが、少女は誘われるように一瞬、振り向いた。
 男の立ち去った後のドアは、ただひっそりとそこにある。ぴちりと閉じられたドアは、廊下と法廷内をくっきりと線引きしていた。
 適度に埋まった傍聴席に視線を転じ、そして小さく小首を傾げると、何事もなかったかのように前を見た。今回の依頼人が、僅かばかりの不安の色を浮かべながらも真直ぐに裁判長の方を向いている。
 心臓がどくどくと煩いぐらいに鳴っていた。掌にじわりと滲む汗。
 静寂の落ちた法廷内に裁判長の重々しい言葉だけが響きわたる。
 無罪。
 と。
 勝利を告げる声に、やったね、なるほど君、と少女は飛び跳ねた。

「やったね、なるほど君!」

 飛び跳ねて喜ぶ真宵の声に、うんと頷きながらも心の中に蟠る晴れない思い。傍聴席をぐるりと見回して、成歩堂は小さく溜息を吐きだした。
 勝ったのは嬉しい。
 それはもう素直に嬉しい、と思う。
 自分のためではなく、依頼人のために絶対に負けられないと思うから、裁判の最中はそれこそ無我夢中だ。自分が何をどう喋っていたのか覚えていないことも珍しくはない。
 けれども。
 今日はほんの少し、本当にほんの少しだけ、他に回す余裕があった。
 余裕があったというより、無理矢理捻りだしたと言った方が正確だったけれども、数日前から帰国していたらしい御剣に会ったのは昨日のことだ。
 帰国の連絡をくれないのは相変わらずだったが、音沙汰一つなかった頃よりは随分マシな対応になってきて、時々は電話をしてくれたりもするようになった。勿論、時差の問題があったりするから、それも頻繁にあるわけではなかったし、あちこち移動しているせいで、此方から連絡を取ろうとして掴まえられた試しなんてなかったが、それでも、帰ってきてから顔を出しにも来てくれるようになった。唐突にふらりと現れるのは変わらなかったけれど、何の連絡もないよりかはずっと良い。
 たったそれだけのことで、飛び上がらんばかりに喜んでいる自分がいることに、御剣は気づくはずもない。
「御剣」
 なんだね成歩堂、と変わらない愛想のない口調が返されることにすら、口許が緩む。大体、目の前にいてくれないと名前を呼ぶことだって、ほとんどできない。
「明日、予定ないの?」
 インスタントしかないけど我慢してよ、と幾分申し訳なさそうに言いながら渡された珈琲に口をつけようとした瞬間、唐突に問いかけられた。
「ム……それはどういう意味だね」
 ごくりと一口飲みこんでから、顔を上げる。
「え。どういう意味ってそのままだけど」
「予定のない人生などあるはずがなかろう。そもそも他人の予定の有無を問題にするよりも、身の回りのこまごまとした雑事を片づけるなり、しなければならないことは山のようにあるのではないのかね」
「う……」
 じろりと睨まれた先は、積み上げられた書類の束。
「あ、あれは、まだ判決の出てない依頼分の資料で…」
「だったら尚更、整理しておかなければならないのではないか?君は、依頼人に尋ねられたときに困らないのかね」
 下手な言い訳は首を締めるだけだった、と軽く後悔しながら、成歩堂はぶんと首を振って、そうじゃなくて!と御剣に向き直った。
「僕が片付け下手なのは分かってるから、いいんだって。大体、今、それを討論しても仕方ないだろう」
 そうか、分かっていたのか、と呆れたように呟いてから、御剣は手にしたコーヒーカップに口をつける。口内にインスタント独特の薄い苦味が広がった。
 僅かに歪められた表情を見遣って、成歩堂ももう一つのカップを手に取る。
「だから、片付けの話は分かったから、今聞いてるのは…」
「明日、時間が空いているのか、とそういうことだろう」
 違うのか?
 真っ直ぐ向けられた厳しいけれども決して攻撃的ではない眼差し。
「う、うん」
 御剣と視線を交わすのなんて初めてでもなんでもないのに、不覚にもドキドキした。急上昇した心拍数を抑えようと、慌てて御剣から目を逸らす。視界の端で、一瞬、御剣が眉間に皺を寄せたような気がしたけれど、今はそれどころじゃなかった。
 ゆっくり深呼吸する。
 落ち着け。
 落ち着くんだ、成歩堂龍一。
 自分に言い聞かせるように、深く息を吸いこんで、そしてゆっくり吐き出した。
 それで、今日は特に用事は入ってないって言うから、傍聴に来て欲しいと頼んだ。
 それはもう頼んだというより拝み倒したと言ってもおかしくないぐらいで、何故行かなければいけないのだとか、行く必要性の意味が理解できないとか、とにかく色々ごちゃごちゃ言うのを強引に捩じ伏せた。尋問のときですら、こんな立て板に水を流すように喋れたことはなかったんじゃないかと思うぐらい、口を挟む暇さえ見つけさせずに。
御剣が帰国するって知ってたら、こんなときに依頼なんて入れなかったのに、とぼやいた僕を呆れたように見た視線が少しだけ痛かったけど、仕方がない。
 一緒にいたいだけなのに。
 彼は分かってくれていない。


「もう、なるほど君ってば!」


 聞いてるのーと不満げに挙げられた声に、はっと意識が目前に戻る。
 傍聴席の人はもう随分疎らで、対面に座していたはずの検事の姿も既になかった。
「え、あ」
 う。
 と声にならない微妙な呻き声が漏れる。
「ほら、ボケッとしない」
「ぐ……ま、」
 真宵ちゃん、苦しい。
 苦しい。ストップ。ストップ。
 本当であれば肩を掴みたかったのだろうが、身長が足りなかったため、ネクタイで代用されてしまったらしい。ぐいと引っ張られた成歩堂は締め上げられたまま、声にならない呻き声を上げて、真宵を静止させる。
「うわっ。なるほど君!」
 顔の色が変わり始めているのを見て、漸く自分の行為の行き過ぎに気づいたらしい真宵が慌てて手を放す。
 掌からするりと抜け落ちたネクタイ。
「だ、だ、…大丈夫?」
 目を飛び出させんばかりの慌てっぷりに、片手を挙げて答える。もう一方の手でネクタイを緩めながら、数度ゆっくり息を吸いこんで吐き出した。
「う……ん」
「ごめんね、なるほど君」
 パンっと胸の前で両手が鳴った。ぴょこんと頭を下げて上げられた顔は、えへへと笑っていて、文句を言う気も起こさせなくなる。
「ん、もう平気……かな」
「良かった」
 頭の上で結わえられたお団子が、少女の動きに合わせてぴょこぴょこ揺れる。
「じゃ、急ご」
「へ?」
 ぐいと引かれる手首。間抜けな顔をしている成歩堂に構わず、手首を掴んだまま、真宵はどんどん歩き出す。
「え、真宵ちゃん?」
「いいから、早く。早く」
 真宵の言葉に重なるように、成歩堂弁護士、そろそろ閉めますけどいいですか、なんて鍵を振りながら顔見知りの係官が入口から叫んでいた。
「うわっ。す、すみません」
 漸く事態を認識する。
 小法廷は閉廷したら速やかに閉められる。そんな当たり前のことをどうして忘れていたんだろう。
「すみません」
 小走りに室内を抜けて入口まで戻ると、成歩堂は申し訳なさそうに係官に頭を下げた。
「そうだよ、なるほど君。早く出ないと迷惑でしょ」
 係官はいえいえと笑って答えてくれたのに、脇から文句を言われて、がくりと肩を落とす。悪いのは確かに自分なのだが、その言い方はあまりにも直球過ぎる。第一、これではどちらが弁護士で助手なのか、分からないのではないだろうか。
「はぁ…」
 無意識のうちに溜息が零れた。
「すみません」
 もう一度、謝罪の言葉を口にする。
「早く控え室に行かないと」
 そして、真宵の言葉に軽いショックを受けた。
 そうだ。判決が出たら、はいそれで終わり、なんてわけない。依頼人に挨拶しないと、と、初めての弁護だったわけでもないのに、そんな当たり前のことすら失念していた自分に驚きよりも呆れに近い感情を覚える。
「そうだね」
 先を歩く真宵の背に頷き返して、後に続く。
「じゃ、お疲れ様でした」
 がちゃり、と重々しい音を立てて掛けられた鍵。
 係官の背に挨拶してから歩き出そうとした成歩堂に、そういえば、と声がかけられた。
「今日、御剣検事にお会いしましたよ」
「え…」
 聞き慣れない単語を聞いたかのように成歩堂の足が止まる。
「随分、久しぶりでしたが、帰国されてたんですね」
 相変わらず威厳というか貫禄というか、周囲の空気の違う方でしたよ。まだ三十前だというのに……。
 係官はその先も何か言っていたようだったが、成歩堂の耳には届いていなかった。代わりに逆の方から別の声が届く。
「やっぱり、そうだったんだ」
 あれ。
 いつまで立っても歩き出そうとしない成歩堂に焦れたのか、戻ってきていた真宵の呟きが耳朶を掠める。
「え…真宵ちゃん?」
「裁判の終わり頃に御剣検事らしい後姿が部屋から出て行くのを見たんだけどね、こんなとこにいると思ってなかったから人違いかな、って」
 そっか。本物の御剣検事だったんだ、あれ。
 そっかそっか。
 一人すっきりした様子で、うんうんと頷く。
「御剣検事をご存知で?」
「そりゃもう、勿論」
 係官の問いに、真宵はブイサインでもしそうな勢いで肯定を返す。
 二人の会話は耳には入っていなかった。
「ごめん、真宵ちゃん」
「え?」
「後、宜しく」
「え、ちょ、ちょっと。なるほど君!」
 後ろの方で真宵が叫んでいるのが分かったが、止まっている時間が惜しかった。
「今度、ラーメン奢るから」
 振り返らずに叫ぶ。
 まだこの建物内にいるのかどうかも分からなかったけれど、とにかく走り出していた。素直じゃないなとか、あの捻くれ者めとか言ってやりたいことは山のようにあったけど、それは本人に伝えれば良い話で、わざわざ此処で口に出すようなことでもない。
 今はとにかく御剣に会いたい。
「こらあぁっ!」
 今日は他の小法廷は開廷されていないのか、廊下には自分たち以外誰もいなかった。広々とした廊下に真宵の声だけが響きわたる。
「なるほど君ーーー」
 …ってば。
 あっという間に走り去ってしまった背中に向かって、真宵はぼそりと呟いた。
「特盛みそラーメンだからね」
 仕方ないなぁ。

「ごめん、真宵ちゃん」
 走りながらもう一度口にする。
 階段を駆け下りながら、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。
 もうこの建物にはいないのかもしれない。
 しかし、そんなことは問題ではない。
 ボタンを操作し、短縮ダイヤルを呼び出した。
 勿論、その間も足は階段を駆け下りる。ただ下まで降りるだけならエレベーターの方が断然速いのだけど、一縷の望みを託して階段を行く。
 トゥルルルルル。
 一回。
 二回。
 呼び出し音が鳴り響く。
 三度目のコールが鳴り終えて、かちりという音ともに機械の向こう側が切り替わった。
「御剣っ…」
「只今、電話に出ることが」
 できません。御用の方は……。
 聞こえてきたのは待ち望んだ声ではなく、冷たい留守番電話の機械音だった。
「っ…」
 咄嗟に電話を切る。
 ツーツー。
 電話から聞こえてくる無情な機械音。
 一階まで降りきってしまった成歩堂は入口脇にある受付に駆け寄った。
「すみません」
「あれ、成歩堂さんじゃないですか。今日も勝ったんですって?凄いですね」
 成歩堂の姿を確認した途端、世間話好きと噂される警備の一人が話しかけてきた。
「あ、ああ。ありがとうございます」
「流石、若手ナンバーワンと言われているだけのことはありますね」
「いや…」
 そんなことはないです。
 とりあえず謙虚に対応しておく。というより、長話に付き合う気はないので、早々に話題を切り替えたかった。
「あの、御剣、見かけませんでした?」
 誰、とは説明しない。
 此処で働く人間たちで御剣怜侍を知らない者の方が少ないからだ。
「え。御剣検事?」
 きょとと首を傾げてから、ああ、と男は頷いた。
「見た見た。随分、久しぶりだったけど変わってませんよね、あの人は」
「もう帰っちゃいました?」
 なんだか長くなりそうだったので、強引に話に割りこむ。
「あ…っと」
 どうだろう。
 ぎゅっと拳に力を入れて、成歩堂は答えを待つ。
「帰るところは見てないなぁ。多分、まだ中にいるんじゃないですか」
 男の返答に成歩堂は、パッと顔を上げた。
「ありがとう!」
「え、あ」
 成歩堂さん?
 背中にかけられた不思議そうな声に振り返らず、肩越しに手を振った。
 なんとなく直感めいたものに従って、成歩堂は資料室に向かう。
携帯電話は留守番だった。ということは屋外ではないということだ。行き当たりばったりなのはいつものことだったが、大抵、それで切り抜けてきた。御剣曰く、笊のような推理。だが、今回も、いや今回ほど、自分の運の良さに祈りながら、成歩堂はあまり人のいない資料室に足を向けた。

「ふぅ……」
 手にしていた資料を書棚に戻して、小さく息を吐く。整理はされているが、それでも膨大な数の資料の前では、小手先の整理だけではどうにもできない現実が目の前にあった。
 本当は真直ぐに帰るつもりだった。
 そもそも来るつもりなどなかった。成歩堂が突然、傍聴に来て欲しいなどと言うので、なんとなく気になってしまっただけなのだ。諸外国を見て回って勉強するのならば、時には原点に立ち返って日本の現場も見ておくべきかもしれない、というのは後から無理矢理捻り出した理由だ、なんてことは決して認めていない。
 今日の傍聴は成歩堂に言われたからではなく、純粋に自身の研究のための一環にすぎない。
 だから、判決を待たずに法廷を後にした。決着はついていたのだから、あれ以上、見るまでもなかった。
 ただ、帰り際に気になったことができたから、此処へ寄った。
 それだけだ。
 決して、成歩堂を待ってみようか、などと思ったわけではない。
 そうだ。
 私は…。
「別に成歩堂を待っていたわけではない」
「そうなの?」
「っ!」
 いつの間に来ていたのか、戸口に成歩堂が立っていた。
「待っててくれたんだとしたら、すごく嬉しかったんだけど」
 僕としては。
 普段よりも幾分精悍な顔つきで、男は立っていた。
「なっ…」
 成歩堂。
 驚きのあまり、御剣の声は言葉として意味を成さない。
 いつから其処にいるのか。
 自分はさっき何を口にしていたのか。
 餌を求める水際の金魚のように口をパクパクさせるだけで、言葉が出てこなかった。
「来てくれたんだ、御剣」
「そ、それはっ」
 別に君が来いと言ったからではなくて…。
「良かった。会えて」
 かつん。
 他に人のいない資料室に革靴の音が木霊する。
「来てくれて嬉しい」
 あと数歩で触れ合いそうなぐらいの距離まで近づいて、成歩堂は言葉通り、嬉しそうに笑った。
 がつっ。
 背後に一歩後退して、御剣は書棚にぶつかる。それ以上、後ろはなかった。
「御剣?」
「な、なんでもない」
 じわりと掌に汗を感じる。
「べ、別に私は君を見に行ったわけではないのだ。あくまで研究の一環として、たまには日本の法廷も確認しておいた方が良いかと思っただけで…」
「うん。でも他にも開廷されてるのに、僕の所を見に来てくれたわけでしょ」
「いやっ、だから、それは…」
 じっと見られて、頭が真っ白になったような気がした。天才検事と呼ばれた自分が、言葉を発することができないなんて、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。そう自分に言い聞かせてみたところで、口を開いても、あ、とか、う、とか意味を成さない呻きが上がるだけだった。
「ありがとう」
 柔らかな視線が御剣だけを映す。
 それは、開廷中に綾里真宵に向けられたものと同質かそれ以上に優しさに満ちていた。
「っ……」
 予想だにしなかった出来事に御剣は完全に言葉を失った。
 恐らく頬が紅潮しているに違いない。
 脈打つ音がいやにはっきり聞こえて、外にまで漏れてしまっているのではないかとどうでもいい危惧を覚える。
「御、剣…?」
 成歩堂の手が伸ばされる。
 ゆっくり近づいてくるのが、まるでスローモーションのように見えた。
 指先が頬に触れる。
 ぴくりと肩が震えた。
 成歩堂が何をしようとしているのか分らないわけではなかったが、足に根が生えたように御剣はその場から動けない。
 指先は滑るように頬をなぞり、掌全体が押し当てられる。
「っ…!」
 咄嗟に目を瞑る。
 成歩堂が息を呑んだのが、御剣にも伝わる。
 そんなつもりじゃなかったと口にして、果たして御剣に伝わるだろうか。
 多分、答えは否。
 でも、この場合、悪いのは全面的に僕なのだろうか。
 成歩堂は胸中で問いかけた。
このタイミングで目なんか瞑られたら、キスを強請られていると思うのは自惚れなのか。
世界が凍りついたように二人の周囲だけが止まっていた。
「御、剣」
 乾ききった口唇を舌で舐める。
 貼りついてしまった口唇を抉じ開けて、掠れた声で辛うじて名前を呼んだ。
「キス」
 しちゃうよ…。
 囁くように口にした言葉に、御剣は弾かれたように目を開ける。
 直後に響いたドンという物音。
 書棚に積まれていた資料が揺れて、ばらの束が幾つか落ちた。
「ってて」
 尻餅をつく格好になった成歩堂がぶつけた臀部を摩りながら、酷いよ御剣、と不満げに口を開く。
「あっ…」
「痛たっ」
 成歩堂の視線にばつが悪そうに俯いた御剣だったが、すぐにきっと睨みつけるように顔を上げた。
「き、君が、おかしなことを言うからだ」
 成歩堂と視線を合わせないように、落ちた資料を拾い集める。
 紅潮した頬はさっき以上に真っ赤に違いなかった。
「じゃあ、聞かないでしても良かった?」
 拗ねたような口調に視線を落とす。
 聞かないで?
 する?
「何をだ」
 意味が分からず、問いの言葉を口に乗せると、成歩堂の方が、えっと驚いたように御剣を凝視した。
「何だ、成歩堂」
 まじまじと見られたせいで些か気分を害したように、御剣の口調が固くなる。
「えっと……本気で言ってる?」
 御剣。
「だから、何をだ」
 会話が繋がっていないことにも気づかず、御剣はむっとした表情を隠そうともせず、成歩堂に向き合う。
「いや。だから」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、困惑を隠しきれず、成歩堂が視線を空にさまよわせる。
「キス……」
「はっきり言え。君はそれでも弁護士か。そんなことでは私が相手では、君の弁護など一瞬で蹴散らしてしまうぞ」
「キス」
「聞いているのか、成歩堂」
 聞いてないのは君の方だって、御剣。
 胸中で小さく零す。
「大体、先程の法廷もだ、相手の検事の詰めが甘かったから勝てたようなもので…」
「…剣」
 名前を呼ぶ。
「君の主張にはまだ二三、穴が開いていたことに…」
「御剣」
 そうだ、こういう男なんだ。検事として切れ者なのは認めるけど、個人としてはどこか抜けていて、抜けているというより鈍感。
「気づいていないのならば…」

「御剣っ!」

「ム。なんだね」
 三度目にして漸く気づいてもらえたことに安堵というか空しさを覚えつつ、成歩堂はスーツの埃を払いながら立ち上がる。
「キスしていい?」
「……は?」
 キス?
 誰と誰が。
「勿論、僕と君が」
 心の声に答えるでない、バカモノが。
 動揺しすぎて、ある意味、冷静だった。冷静であろうと努めているといった方が正確かもしれない。
 硬直したままの御剣が動き出すのを成歩堂はじっと待った。
 三秒が過ぎ、五秒が過ぎる。
 十秒ほど経ったところで、御剣がふるふると肩を震わせながら、成歩堂を睨みつけた。

「何をバカなことを言ってるのだ、貴様は!」

 御剣は頬を真っ赤に染め、鼓膜が破れそうなほどの声量で怒鳴った。あまり広くない資料室の壁がびりびりと震えていた。
 肺の中の酸素を全て吐き出してしまったのか、ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す。
「本気だよ」
 御剣とは対照的に涼しげな表情で成歩堂は口にする。
「今日がダメなら、また明日も聞くし」
「な……」
 本気だから。
 部屋を去ろうとしていた御剣の動きが、そう繰り返す成歩堂の言葉に止まる。
 紅潮したままの頬の色は収まらない。
 真っ赤なまま、成歩堂を凝視して、そして目を逸らした。
「つきあっとれんわ」
「あ。御剣待ってよ」
 部屋を出て行こうとした御剣に声をかける。
 一緒に帰ろ。
 ていうか、そのために待っててくれたんでしょ。
 追いかける成歩堂の言葉に一歩、立ち止まった。

「煩いっ」

 そう言うと、大股で歩き出す。
「うわ。御剣、待ってってば」
「煩い。貴様なんぞ、待っておらんわ」
 廊下に響く二人の声が資料室からだんだん遠くなる。


「ね、ご飯食べて帰ろう」
「……どうせラーメンなのだろう」
「え。違うよ、あれは真宵ちゃんが一緒だからだって。御剣は何が食べたい?」