Pray to the Moon.

 すっかり涼しくなったな、とサスケは肩の荷物を抱えなおしながら呟いた。
 サスケの声は拾われることなく虚空に吸いこまれる。
 日中はまだまだ残暑が厳しいが、日が沈んでしまえば、そこかしこに秋の気配が溢れているのが感じられる。つい先日までは、まだまだ明るかったはずの時間が、今ではすっかり夕暮れの薄闇に包まれていた。
 細い月に照らされた影がぼんやりと長く伸び、前を歩くナルトの足元に重なる。
 今回の任務はどうだったとか、早く里に戻って一楽のラーメンが食べたいとか、この間イルカ先生に会ったんだとか、同じ道を任務に向かった数日前にも聞いたような話も含めて、一方的に口を開いていたナルトだったが、ふと足を止めて空を仰いだ。
 つられるようにサスケも視線を向ける。
 東の空は群青色に染まり、天球は不思議な色合いのグラデーションで彩られていた。
「サスケ……?」
 立ち止まったままのサスケに、ナルトが不思議そうに戻ってくる。
「どうかしたってば?」
 少しだけナルトの方が背が高くなったせいで、僅かに見下ろされる視線。髪の毛の陰になった瞳が僅かに不安の色を浮かべてサスケを見つめていた。
「別に」
 ナルトが引き返してきていたことに気づいていなかったことに少しばかりの腹立たしさを覚えて、サスケはふいと視線を逸らす。
 視界に収まるナルトの掌。
 気づけば、がっしりとした男の手になっていたのに気づいたのはいつだったか。手だけではない。認めたくはなかったが、背もいつの間にか抜かされていた。男としての悔しさを覚える一方で、その手の頼もしさを知った今となっては同時に安心も覚える。
 サスケはゆっくり息を吐き出すと、再び空に目を向けた。
 その瞳は、虚空を睨み据えたまま視線は微動だにしない。
「そっか」
 サスケが素っ気ないのは今に始まったことではなかったから、その愛想ない態度にもナルトが気に留めた様子はなかった。
「何、見てるってば?」
 サスケの視線を追って、ナルトも空を見上げる。ついさっきまで自分も見上げていたはずなのに、サスケが何を見ているのかが知りたかった。
 地平線よりやや上方、透き通るような弓月が、紺色の空で光を放っていた。あともう少し時間が経てば、背の高い木々に遮られて見えなくなってしまうに違いない。
 薄曇りなのか、星明りはほとんど見えない。
 ただ、月光だけが静かに降ってくる。
 綺麗だな……。
 昔は月明かりなんて気にしたことはなかった。精々、任務に支障があるか否かぐらいしか気に留めることもなく、こんな風にぼんやりと空を見上げることなんて忘れていた。それを思い出させてくれたのは、誰でもない。目の前の男を含めて捨てたはずの仲間たちに引きずり戻されたのは、身体だけではない。捨て去ったつもりでいて、実は何も捨てきれていなかったことをつきつけられた。
 その場の静寂を壊したくなくて、サスケは僅かに口唇を震わせる。
「……ん?」
 けれども、ナルトがサスケに視線を向ける。もうどんな些細な声も動きも逃したくはなかった。
 月を見つめていたときと変わらない真っ直ぐな瞳がサスケを映す。
 心配性だな。
 サスケは思わず口許を緩める。
 ナルトの心中なんて問うまでもなかった。自惚れるつもりはなかったが、そうさせたのが自分だということは嫌と言うほど思い知らされていた。
「何、笑って……」
「さっきから、何、ばかりだな」
 お前は。
 にやりと不敵に微笑まれて、ナルトは咄嗟に口籠もる。
 何度も何度も手を伸ばしては掴み損ねた過去を思い出し、サスケが里に戻ってきてからも夜中に飛び起きることがあるなんて、口が裂けても本人に知られるわけにはいかなかったが、捕まえたつもりでいるのは自分だけで、時々サスケが遠くを見ているとまた自分を、里の仲間たちを置いて何処かに行ってしまうんじゃないかと思ってしまう。だから、女々しいと分かっていても口に出さずにはいられなかった。
「何処にも行かない」
「え……」
 思わず口に出してしまっていたのかと不安になったが、どうやら違うらしい。
「もう何処にも]
 行く必要がないからな。
 ざわりと風が吹き抜ける。
 触れたのは一瞬だった。
 幻術にでもかけられたんじゃないだろうかとナルトが疑うほどに、それはあっさりと触れて、そして離れていった。だが、下忍の頃ならいざ知らず、今の自分には生半可な幻術は通用しない。そもそも、このタイミングで幻術をかけられる意味が分からない。だから、乱れていないチャクラと、そして何より上気した自分の頬の熱が、先刻の接触が夢でも幻でもないことを明確に告げていた。
「急ぐぞ」
「……」
「予定よりも遅れてる。さっさと戻らないと五代目に何言われるか分かったもんじゃないからな」
 何事もなかったように告げるサスケの、けれどもほんのりと紅く色づいた頬がナルトの確信を強める。
「サスケっ!」
「っ」
 掴まれた手首にかかる強い力。痛いぐらいに力の入った指先に軽く顔を顰めつつ、サスケはナルトを振り返らない。
「サスケってば、こっち見ろって」
 振り払おうにも払えそうもないナルトの本気が伝わってきて、サスケはしぶしぶナルトに視線を向ける。
「不意打ちなんて、」
 卑怯だってばよ……。
 指先から伝わる熱とは裏腹に、どこか頼りなさげに揺れる瞳。普段は逸らしたくても逸らせないほど強い力で絡め取ろうとするくせに、こういうときは不思議と庇護欲を誘うから卑怯だと思う。
「ナルト」
 サスケの声に誘われるように、ナルトはもう一方の手を伸ばす。
 ついと頬をなぞる指先の感触が少しだけ擽ったかった。
「キス」
 少しだけ掠れた声が耳許に落とされる。
 覆い被さってくる意図なんて一つしかないくせに、やっぱりこんなときばかり卑怯だとサスケは口唇を噛んで、だから素直に答えてなどやるものかと少しだけ意地になる。

 里まで待て。

 口唇に触れるか触れないかギリギリの距離で囁くように吐息を零すと、一瞬、気の取られたナルトの身体を勢いよく押し退けた。
「!」
 我に返ったナルトの視界に、もうかなり小さくなりつつあるサスケの後姿が飛びこんでくる。
「アイツ……」
 速さではサスケの方が一枚上手であるのは事実だったが、真正面から挑まれた勝負を退くわけにはいかなかった。
「負けないってばよ」
 サスケの背中だったら、もう絶対に見失わない。
 ナルトは自信たっぷりな笑みを浮かべて、サスケを捕まえるべく駆け出した。