三人で一緒に

 雨上がりの水溜まりに映る青空。
 嵐のように吹き荒れた深夜の強風が、雨と、そして先日までの暑さもすっかり連れ去ったようで、袖を通したばかりのジャケットが丁度良く感じられる。
 清々しい朝の風に表情が和らいだ次の瞬間、聞き慣れた声を耳にしてサスケの眉間に皺が寄った。
 お前ってば、いつもそんな顔ばっかして疲れないのかよ、と疑問系ではなく断定を口にする幼馴染みの声が聞こえた気がして、ますますサスケの表情が歪められる。
「サスケェェェェ!」
 そして、耳に届くのは幻聴でも何でもない、ナルトの声。
 どれほど遠くから呼ばれたとしても、この声だけは聞き間違えることはない。
「待てってばよ!」
 住宅街に響きわたる大声にすれ違った勤め人らしい女性がくすりと口許を緩めたのが分かって、サスケの頬に微かに朱がはしる。
 通勤・通学の時間というのは大体毎日同じだから、名前も知らない彼女とサスケは、ほぼ毎朝ここですれ違い、そして月に数回、彼女は同様の遣り取りに遭遇していることになる。
 もしかすると、彼女はサスケの名前も覚えてしまっているのではないか、という考えに対する正答は決して得られないが、高い可能性で誤りではないとサスケは確信していた。
 あのウスラトンカチが……。
 胸中で呟いたサスケの声が聞こえたわけではないだろうに、その声に応えるようにサスケの横を一陣の風が吹き抜けた。
 キィィィィッと耳障りなブレーキ音を響かせて、背後から回りこんできた自転車がサスケの前で止まる。
「サスケっ!」
「うるさい」
 ウスラトンカチ。
 重なる二人の声。
 交差する二人の視線。
 頭上の青空と同じ色をした瞳から先に目を反らしたのはサスケの方だった。ぴょんぴょんと好き勝手な方向に跳ねている地毛の金色に目を留めて、一つ溜息を零す。
「髪、」
 跳ねてるぞ、までは言ってやらない。そもそも今更だ。こんな会話、何度繰り返したかも覚えていないのに、ナルトは相変わらず気にした風もなく、そんなことよりっ、と非難がましい眼差しをサスケに向ける。
「なんで、一人で先に行くんだってばよ!」
「なんでもなにも、お前と違って電車だから先に行くに決まってんだろ。大体、昨日も一昨日もその前も、ほとんど毎日そう言ってるだろう」
「……そうだった?」
 自信なさげに表情を伺ってくるナルトに対して、サスケは無言で肯いた。
「……で、でも、起こしてくれたっていいってばよ!オレ、サスケの家に行ったら、オバちゃんにもう言ったわよって言われて、すげぇショックだったんだからな!」
 しゅんと項垂れた姿は人懐っこい大型犬のようだが、それも一瞬だけで、即座に顔を上げて噛みついてくる様子はキャンキャンと吠えたてる小型犬のそれに近い。
「お前な……」
 何度目になるか随分昔に数えるのを止めてしまった口論を飽きずに繰り返そうとするナルトを前にして、サスケは今度は大きな溜息を隠すことなく吐き出した。
「高校生になったら一人で起きるって言ったよな?」
「い、言ったってばよ…」
 ぎろりと睨まれて、ナルトが僅かに怯む。
「だったら、オレに毎朝起こして貰おうと思うんじゃねぇよ」
 一気に言い放ったサスケは腕時計に視線を落として、ハッと顔を上げた。
「こんな所で、お前と言い争ってる場合じゃねぇ」
「……?」
 時計の針はサスケが乗るつもりの電車の発車時刻数分前を指しており、今からではどう急いだところでも間に合わないことを告げていた。
「どうしてくれんだ、ウスラトンカチ」
「なんだってばよ?」
「電車、乗り遅れただろうが」
 チッと舌打ちしたサスケに、けれどもナルトは少し嬉しそうに、ニシシと笑みを返した。
「後ろに乗れってば」
 ほら、と後輪に向けられた視線。
「バカ言ってんな、朝から二人乗りなんて、見つかったらどうすんだ」
「大丈夫だってばよ。朝はパトロールしてないし、それに裏道行けば、ほとんど人いないし」
 自信満々に言うナルトと電車で行くには絶望的な時刻を冷たく告げる時計の間を視線を往復させると、サスケは諦めたようにナルトの肩に手をかける。
「下手な運転すんじゃねぇぞ」
「したことないってばよ」
 そうだな、と胸中で呟いてサスケはステップに片足を乗せた。軽い反動をつけて、もう一方の足をステップに乗せた瞬間、自転車に二人分の体重がかかる。
 肩に乗せられたサスケの指先を感じて、ナルトは勢いよくペダルを漕ぎだした。
「行くってばよ!」
 何が楽しいのか分からないが、サスケを後ろに乗せたナルトはいつも嬉しそうだ。勿論、サスケから顔は見えないので、あくまでもサスケの主観に過ぎなかったが、不思議とそれが間違っていると思ったことはない。
 声の調子だけで、大まかな感情は掴める。それは、ナルトが分かりやすいというだけでは説明できないことからは、無意識に目を逸らしていた。
「そういえば」
 二人乗りだということを感じさせない軽快なテンポで自転車は進む。
 ナルトの肩に手を置きつつも体重自体はほとんど預けることなく、真っ直ぐに立って、普段よりも高い視点でサスケは見慣れた景色を視野に納めていく。
「あ?」
 背後へと流れていくのを視界の端に捉えながら、サスケは意識をナルトに向けた。
「サスケ、なんで、電車で行くことにしたんだってば?」
「は?」
「だって、そうだろ。自転車の方が早く着くのに、なんでわざわざ電車なんか……痛っ!」
 ゴンという音に遅れて、車体が僅かに揺らぐ。
「バ、バカっ……!」
「痛っぅ!」
 自転車から振り落とされまいと肩を掴むサスケの指先に思わず力が入ったのと、ナルトの悲鳴が響いたのはほぼ同時だった。
「危ないだろうが」
「サスケのせいだってばよ」
「……悪い」
 そもそもの原因はナルトがバカなせいだと思いつつも、漕ぎ手の気を散らしたのも確かに自分だと分かっていたので、珍しく素直に謝罪の言葉を口にしたサスケだったが、またもや珍しいものを耳にしたせいか、ナルトがバランスを崩す。
「おい、」
「ゴメンってば」
 焦ったようなナルトの口調。
 こういうとき顔が見えないのは少しだけ不便だ。
「だって、サスケがあんなに素直に謝るなんて」
 珍しかったんだってばよ。
 聞きようによっては随分と失礼なことを言われていると思ったが、確かにナルトに対して謝罪の言葉を口にした記憶なんて、ここ最近ではほとんどなかったように思う。二人の間で何か詫びるような事態が起こったならば、それはほぼ間違いなくナルトに非があることの方が多い。
「煩い」
 少しだけ不貞腐れたようなサスケの声にナルトはごめんってばよ、ともう一度、同じ言葉を舌に乗せた。
「で、」
「……は?」
 再び快調に風を切って自転車は進む。
 交通量の多い大通りではなく裏道を行くのはナルトが見つけた最短ルートだ。信号機が殆どないおかげで、自転車はスピードを落とすことなく、軽快に走った。
「だから、電車で行ってる理由だってばよ」
 ナルトにしては珍しく、あんなことがあったのに忘れていなかったらしい。
 サスケは少しだけ感心した。
「オレってば、サスケと一緒に行けなくて、すっげぇ寂しいんだってばよ?」
 風に乗って届くナルトの声は、自転車を漕いでいながら、随分はっきりと耳に届く。
「バッ……!」
 周辺に人影は全くなかったけれど、誰かいたら確実に聞かれているであろう声量に、サスケの表情が強張る。思わず拳を握りしめかけて、数分前の出来事を思い出して、ほぅと息を吐きだした。
「サスケ…?」
「お前のせいだろうが」
「へ……?」
 呆れたようなサスケの声にナルトの口から間抜な形に開かれる。
「忘れてんじゃねぇ…この」
 ウスラトンカチ。
 力は籠めずに、ぺちりと頭部を叩いた。
 別段、その程度の痛みは痛みにもなっていなかったけれど、それよりも自分のせいだと言われて、ナルトはきょとりと首を傾げた。
「オレ……?」
「ああ」
 ランドセルを背負った小学生の一団が前方にいるのが視界に入る。サスケが口を開くよりも緩やかに自転車が減速し、僅かに感じる慣性力にサスケは少しだけナルトの背に身を預けた。
「おおい、自転車が通るってばよ」
 ちりんちりん、と自転車のベルを鳴らしながら、ナルトが子どもたちに声をかける。
「おはようだってばよ」
 通り過ぎざまにそう声をかけて通り抜けた自転車の背に、もうすっかり慣れたものなのか、おはようございますと子供たちの返礼が投げられた。
 毎朝、同じ道を通るだけの名前も知らない子どもたちなのにナルトはまるで友だちのように声をかける。随分、昔に何故か尋ねたサスケに対し、ナルトは逆に不思議そうな顔をして、だって顔知ってんだから顔見知りだろ、とサスケの問の答えになっているようないないような返答をしたものだった。だが、そういうところがナルトらしいとサスケは思っていた。
「本当に、お前らしい…」
 サスケの呟きは風に乗って後方へと流れていく。
「サスケェ」
「なんだ?」
 子どもたちの姿はもう随分と後方に遠くなっていた。
「今、何か言った?」
 また少し大声で怒鳴るように言ったナルトに、聞こえてる、と力なく呟いた後で、何も、と少しだけ声量を上げて怒鳴り返した。
 あと数分もしないで学校に着く。
 近くなる車の走行音が、大通りに近づいたことを教えてくれた。
 交通量の多い通りに来ると、ナルトはいつものお喋りは何処へ行ったのかと思う程、ぱたりと口を閉ざしてしまう。他の人間と二人乗りしているのを見たことはなかったから、少なくともサスケに分かるのは、後ろにサスケを乗せているときだけだということになる。無茶や無鉄砲なことばかりしているくせに、こういうところだけ心配性なのはどうしてなのか。
 ぴたりと会話の止まったまま、二人を乗せた自転車は後方から次々と来る車に追い越されながらも再び大通りを離れ、学校に通じる一方通行の細い道に入った。
 ここまで来ると、同じ制服を着て自転車を漕ぐ生徒の姿がちらほら視界に入り出す。
「おい、ナルト」
 普段の通り、サスケはそろそろ下ろせとナルトに声をかけた。いつもだったら、ナルトも渋々ではあったが素直に自転車を止めるのだが、何故か今朝は一向にブレーキをかける気配がない。
「ナルト」
 焦れたようにサスケはナルトの肩を叩いた。
「下ろせ」
「嫌だってばよ」
「はぁ?」
 ナルトから返ってきた予想外の返答にサスケが思わず声が上がる。ナルトが嬉しそうに、にししと笑い声を上げた。
「別にこのまま行ったって平気だってばよ」
 サスケが飛び降りるのを邪魔するようにペダルを漕ぐ足に力を入れる。
「バッ……バカ!」
 かなり本気なのだろう。
 それまでとは明らかに違うスピードで後方に流れていく景色を視界に入れながら、サスケは上体を僅かに屈めたナルトの背に強く上半身を押しつけ、肩をぎゅっと掴んだ。
 幸い、二人が通っている道は自転車置き場に通じる西門への道だったし、近隣の住宅も玄関は反対側の通りに面している家が大多数だったから、徒歩の人影は見えない。同じように自転車通学の人間が、遅刻間際と言うわけでもないのに、すごい勢いで走り抜けていった二人の自転車に呆気にとられた様子だった気がしたが、正直サスケとしても周囲の景色をきちんと把握するのは難しかった。
 キキィィ、と耳障りな音を立てて自転車が止まる。
 サスケは掴んだままだったナルトの肩をぐっと掴み、落とされないように両足に力を籠めた。
「到着だってばよ」
 いつの間にか自転車は西門を通り抜け、校舎敷地に入っていた。
 にししと得意げに笑って振り返ったナルトの頭をぺしりと叩いて、サスケは自転車から飛び降りる。痛いってばよ、と頭を抱えたナルトのことなんて知ったことではなかった。
「スピードの出し過ぎだ」
 あと幾らもしないうちに煩いのがやってくる、とサスケが諦めたようにぼやいたのにも拘わらず、ナルトは嬉しそうな表情をしたままで、その表情にサスケが僅かに首を傾げる。
「もう大丈夫だってばよ」
「は……?」
 何のことだ、と言いかけて、はたとサスケはナルトの言ったことに思い当たる。と、同時にウスラトンカチが、と額に手を当てて呟いた。
 夏の終わりの事故。別にナルトもサスケも怪我はしなかったが、二人の乗っていたサスケの自転車は無残な姿に変わってしまった。修理代を聞いたら、新しい自転車を買った方がいいような金額を提示されてしまい、結局、サスケは大破した自転車をスクラップにする決断をした。そして、新しい自転車はまだ買っていない。
「無茶すんじゃねぇ」
 はぁ、と深々と溜息を吐きながら、サスケはナルトの額にぺちと手の甲を当てた。
 あの事故以来、サスケを乗せたときのナルトは、車通りでスピードを出さなくなった。サスケとしてはくだらないことだと思っていたが、ナルトが何を考えているのかまでは分からなかったから、特に口を挟んだりはしなかった。
 へへっとサスケの手を掴んでナルトが笑う。
「もう大丈夫だってばよ」
 なんてことはない。スピードを出さなかたのは、怯えていたからなのだということに今更気づいた。それも自分の身に対してではなく、後ろに乗るサスケを心配していたのだということに、少しだけむず痒いものを感じて、サスケはもう一つ溜息を零した。
「最初から二人乗りなんてしなけりゃいいんだよ」
 前の籠から自分の荷物を取り出しながら、サスケがそう口にすると、えぇぇと不満げな声が上がる。
「二人乗りは禁止だろ」
「そんなこと言って、結局サスケだって乗ってるってばよ」
「遅刻したら困るからな」
 さっさと昇降口に向かって歩き出したサスケの背を見て、ナルトが慌てて自転車を所定の位置に持っていく。
「ちょ、」
 サスケ。
 待てってばよ、と続くはずだったナルトの声は、耳に馴染みのある大声にかき消された。
「ナルトォォォォォォォ!」
 多分、先刻の暴走っぷりを目にした誰かが知らせたのだろう。同じクラスの風紀委員であるサクラが凄い勢いでこちらに駆けてくるのを見て、ほらな、とサスケは小さく呟いた。
「アンタね、」
 夏休み最終日の事故のことは、いつの間にか同じクラスに広まっていて、当然サクラの耳にも入っていた。事故ったくせに無茶な運転するんじゃないわよ、と本人は風紀委員だから仕方なくアンタの生活を改善させてんのよと日々口を尖らせる姿に、それ別に風紀委員関係ないってばよ、とぼやきつつもこれも長い付き合いであるサクラには頭の上がらないナルトが小さくなりながら説教を受ける。
 そんな二人の様子にサスケはくすりと口許を緩めた。
「ナルト」
「ほぇ?」
 何か口答えしたのだろう、頬をぐいとサクラの両手に引っ張られた状態で、ナルトが返事をする。
「帰りも乗せてけよ」
「へ……」
 いつもは、朝は遅刻するから仕方なくだと言い張り、帰りはさっさと電車で帰宅してしまうサスケの思わぬ言葉に、ナルトの頭に疑問符が浮かんでいるのが分かって、サスケはますます笑みを深めた。
「誕生日だろ」
 今日。
 サスケの言葉に、あ、とサクラも小さく声を上げる。誕生日プレゼントは毎年恒例だったから用意はしていたが、とんでもない暴走自転車の話を聞かされて、意識からすとんと抜け落ちてしまっていた。
 しかし、サスケ君が自分からナルトにこの話題を振った年なんて今までになかったんじゃないかしら、と二人との付き合いは他の誰より長いサクラはふと記憶を探ろうとして、すぐに別にいいか、と思い返した。
 別に初めてだとかそんなことはたいした問題じゃない。
「祝ってやるから乗せて帰れ」
 いつまで経っても新しい自転車を買おうとしないサスケにナルトがその理由を尋ねると、気に入ったやつが見付からねぇんだよ、と返し続けた一か月余り。本当はナルトの誕生日プレゼントを買うためだったなんてことは決して言ってやるつもりはない。
「家に忘れてきた」
 本当は態と置いてきたのだが、それも言う必要はなかった。そんなにもナルトの誕生日を祝いたいなんて思われたら、癪に障るから、あくまでも長年の義理だということを前面に押し出し、あっさりとそれだけ告げるとサスケはさっさと歩き出した。
 僅かに頬が色づいているのは、多分、気のせいではないだろう。
 普通はお祝いする方が乗せてってやるとでも言うところなのに、サスケ君ってば相変わらずよね、とサクラはやれやれと肩を竦めると状況が把握できていないのか、固まったままのナルトを置いて、サスケの後を追うように昇降口に引き返した。
「ナルト」
 固まっていた時間は一分となかったはずだが、数メートルと離れていない昇降口からサクラに呼ばれて、はっと我に返ったナルトは、どくどくと早鐘のように鳴る自分の鼓動の音がやけに大きく聞こえて、ごくりと唾を飲みこんだ。
「早く来い」
 してやったりという表情で笑うサスケにどきりとする。
「そうよ」
 サクラも笑っていた。
「アンタと一緒に遅刻なんてお断りよ」
 二人の言葉にナルトは弾かれたように、バッグを掴んで走り出した。


 誕生日おめでとう。


 説教していたことなどもうすっかり忘却の彼方のようなサクラの満面の笑みが、飛びこんできたナルトを迎え入れる。
 サスケも少しだけ照れたように、おめでとうと口にすると、ぽんとナルトの肩に手を置いた。
 二人の笑顔にナルトの顔がパッと輝く。
「ありがとうだってばよ、二人とも」
 なんとなく予想はしていたものの、まさか本当に飛びついてくるとは思わなかった、とはサスケの弁。
 サクラに至っては高校生にもなって小学生のときと同じ反応をするなんて、と驚き半分呆れ半分、けれども咎め立てたりは勿論しない。
 ナルトが二人を囲うように腕を伸ばしたのとほぼ同時に予鈴が鳴り響いた。
「わっ」
「バカッ」
 二人が声を上げたのにも構わず、ナルトは二人の肩に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
 教室に急ぐ他の生徒たちがじゃれあう三人の姿に一瞬何事かと視線を向け、そして輪の中心に鮮やかな金の髪を認めて、ああ、と納得したように通り抜けていった。