緋色の花嫁

アナタさえ居なければ。


不意に背を疾った、言い様のない悪寒。
暑過ぎず、寒過ぎず、快適に調整された空調の効いた室内で一人、ぶるりと身体を震わせる。
幸いなことに同じテーブルに付いていた人間は誰も彼女の異変に気づいた様子はなかった。
一瞬感じた、強い気配は微塵も感じられない。
気のせい。
そう思って、ゆっくり息を吐き出した。
何よりも、それほど強い憎しみを抱かれるような心当たりがない。

それどころか。

彼女は自身の意志によって視線を上げた。
華やかな装飾。
テーブルの中央を彩る花飾りは、何らかのテーマに沿って選ばれたのか、一つとして同じ組み合わせの物はない。

胸中に燻る昏い焔。
表面には決して見せず、彼女は微笑んでいた。
隣の席に座る友人の語りかける言葉に、一つ一つ頷きながら、ナイフとフォークを動かす。

誰も気づかない。

誰も知らない。

どくん、と心臓が鳴る。
彼女はゆっくり息を吐いた。
どくんどくん。
更に鼓動は高鳴る。
何かに怯えるように、何かに立ち向かうように、全身の神経がぴんと張り詰めていく。
指の先端を流れる血液が、どくどくと煩いぐらいに音を立てる。
じわりと掌が汗ばんだ。

どうしたの。

何も知らない友人が訝しむように表情を伺ってくる。

具合悪いんじゃない。顔、真っ青よ。

大丈夫。
そう言ったつもりの口唇は、実際には言葉にならない音を紡いだだけ。
代わりに友人の腕を掴んで訴えた。

大丈夫。

微かな呟きは、室内を満たすゆったりとしたメロディにかき消されたが、数十センチメートルと離れていなかったお陰で目的は達せられる。
でも、と言いかけて口篭った不安げな表情。
躊躇する瞳をじっと見つめて、ゆっくり息を吐き出した。
深く、深く、潜水でもするかのごとく肺一杯に空気を送り込み、そして吐き出す。
二度、三度と繰り返すうちに顔色が戻ってきた。

大丈夫。

三度、彼女は口にした。
口唇をうっすらと持ち上げ、ゆうるりと笑う。
ドレスに合わせた真紅のルージュに彩られた口許。

おめでたい席なのに、皆に心配かけられないわ。

すっかり落ち着いた、いつも通りの口調にようやく不安げだった視線が緩められる。
止まっていた手が動き出し、フォークが口許に運ばれた。
ふと、伺うように他の出席者を見回す。
幸いなことに彼女の異変に気づいた者は他にはいなかったらしい。

ほう。
無意識のうちに安堵の息が吐きだされる。
中央に意識を戻せば、礼服に身を包んだ司会の男が淡々と式を進行させていた。
ぐるりと周囲を見渡す。
一つ向こうのテーブルを囲む新郎の家族。
自分の親とそう歳の変わらなさそうな年配の夫婦が、ビール瓶を持って客の間を回っていた。

そう。
心配かけられないわ。

微かな呟き。
それは誰の耳にも届けられることなく空に吸い込まれた。

そして重なる悲鳴。
がしゃん、と派手な音を立てて食器が床に落ちた。
人々が騒然とする中で、女は一人グラスを揺らして口をつける。
それは彼女の口紅よりもさらに色濃い紅紫。
こくりと喉を鳴らして、一口飲みこむ。
じわりと喉を焼くようなアルコールが、逆に昂ぶりかけた気持ちを抑えていく。

救急車を……。

ばたばたと走り回る式場の人間と、おろおろと動き回る招待客。
騒然とした場内に響きわたる子供の泣き声。
母親らしき女が焦ったように宥めている姿を無感動に一瞥する。
そして、再び視線を中央に向けた。
蒼褪めた人垣の隙間から見えた人影。
口許に薄い笑いを浮かべて、もう一口ワインを含む。
確認しなくても誰かは一目瞭然だった。


純白のドレスを血の色に染めた花嫁が倒れていた。