琥珀色の愛情

ライトに当てたら、もっと綺麗よ。


明確な意思を持って向けられた言葉と笑み。
彼女は、それに対して曖昧な呟きを返す以外の選択肢を思い描けなかった。
日々の彼女を知る者から見れば、あまりにも拙い口調。
表情。
言葉を知らない幼子。
それで精一杯の感情表現。

パチパチと弾ける気泡。
グラスの中で琥珀色の液体が揺れていた。
揺れる液体。
ゆらゆらと揺らめく。
グラス越しに映る風景が歪んで見えた。
ぱちんと音を立てて泡が壊れる。
小さく弾ける。
気泡は絶えず生まれ、そして消えていく。
休むことなく繰り返される誕生と消滅。
親指と人指し指で軽く挟んでグラスを傾けると、腔内で小さな粒が弾けた。
決して不快ではない感触に表情が緩む。
ほぉ、と息を吐き出した。
ゆっくり。
ゆっくり吐き出した。

ライトに当てたら、もっと綺麗よ。

先程の言葉が、脳裏をリフレインした。
繰り返される言葉。
再会してから一年半。
否、再会と呼ぶのが適切かどうか。
何故なら。
そこまで考えて、彼女は気づかれないほど軽く頭を振った。

今更だ。

考えても事実は変わらない。
自分に言い聞かせて、彼女はグラスを揺らした。
深みのある琥珀色の液体が音も立てずに波打つ。

周囲のざわめきが、どこか遠いもののように感じられた。
彼女達のテーブルだけが、空間ごと切り取られたように二人の間に沈黙が落ちる。
音を立てるシャンパン。
薄暗い店内を照らす照明が、グラスの中の琥珀色に輝きを添える。
彼女はガラス越しに艶然と微笑んでいた。
歳若い彼女の内心の苦渋など知る由も無い様子で、ゆったりとグラスを傾ける。
その様子に、心の中で深々と溜息を吐き出した。
彼女の吐息を受けて、揺れるシャンパン。
言葉を紡ぐ代わりに、グラスの中身を喉に流し込む。

二人の女性の前には、それぞれ大皿が一枚。
テーブルの上には、ワイングラスが三組。
空席の主席。
彼が来たならば、この息の詰まるような空気から解放される。
そう思った直後に彼女の思考は反論する。
どちらにしても変わらない。
息苦しさが増すだけだ。
グラスをテーブルに置いて、テーブルクロスの下に隠れた足を組み直した。
さわさわと、着慣れない素材のスカートが、ストッキングの上から足に纏わりつく。
不思議な感触。

不思議な感覚。

主役の男が遅れて現れたのは、スープの皿が運ばれてきたのとほとんど同時刻だった。
申し訳ない。
そう口にする男に、やはり曖昧な笑みを返す。
何故、謝られるのかすら、彼女には理解できなかった。
だから、何も口には出さずに、ただ笑う。
笑えているのかどうかも分からない、曖昧な微笑。

グラスが空くのを待たずに、新たに注がれる白ワイン。
シャンパンよりも僅かに濃い琥珀色。
お喋りなソムリエが熱心に説明していたけれど、名前も覚えてはいない。
コクのある辛口。
喉を通る感覚に、ああ、これがコクのある辛口なのかと独りごちてみるだけ。
隣のテーブルとは数メートルと離れていないのに、会話は全く聞こえてこない。
適度な喧騒。
目の前の二人が交わす会話に、時折相槌を打ちながら、彼女は静かに手を動かした。
ナイフとフォークが洗練と呼ぶには未熟な動きを繰り返す。
不意に空気を震わせるかのような電子音が周囲に響いた。
街に溢れた携帯電話の着信音。
マナーモードにし忘れたそれを彼女は慌てて、手に取り、ディスプレイに視線を落とす。
メモリに登録されていない番号。
見覚えのある番号を確認すると、彼女は無言で電話を手渡した。
彼女の知らない、けれども彼女達の知人からの着信。

ともすれば、普段以上に大きくなりがちな声を押さえながら、女は席を立った。
影のように現れた、店の人間に案内されて待合室のような場所に足を向ける。
後姿を見送りながら、彼女はグラスに手を伸ばした。
かつん。
爪がグラスに当たって、硬質な音を立てる。

優しい人でしょ。

話しかけるタイミングを図っていたのか、そう言って男は人の良さそうな笑みを浮かべた。

優しい人だよね。

柱の陰に隠れて見えなくなった姿を追いかけるように視線だけを向けて、男は繰り返した。
口に含んだワインを静かに喉の奥に流し込みながら、彼女は返答に困って視線を宙へと彷徨わせる。
こくり。
喉が緩やかに上下し、深みのあるアルコールがゆっくり気管を流れていった。

片手で数えられる程の回数しか会ったことはなかったけれど、柔らかな物腰は嫌いではなかった。
そして、物腰同様の柔和な表情と、時折見せる、正反対の鋭い眼差しも。
けれども意見が一致することはないに違いない。
漠然とそう考える。
彼女は、曖昧に笑うしかなかった。
肯定も否定もせず、ただ曖昧に。
男は何も言わなかった。
二人の間で、グラスの中のワインが揺らめきながら、照明の光を浴びていた。

ああ、戻ってきたみたいだ。

声に導かれるように視線を上げる。
数十センチメートルと離れていないにも関わらず、隣テーブルが随分遠い。
光度を抑えた照明が形の無い境界を作り出していた。

優しい人だよ。

男が呟くように零した。
答えを求めるわけではない。
言い聞かせようとしたのでもなかった。
自然と口をついて出た。
そう表現するのが最も適切。

君のお母さんは。

彼女は答えなかった。
聞こえない振りをしてグラスの中身を腔内に流し込む。
男もまたそれ以上は言わなかった。

何、話してたの?

差し出された携帯電話を受け取って、彼女は視線を逸らす。
男は何事も無かったかのごとく、にこやかな笑みを浮かべた。

君の悪口さ。

男の台詞に女は、ヒドイわね、と口を尖らせる。
けれども、その目は笑っていた。

こくり。
喉が緩やかに上下する。
こくり。
もう一口。

グラス越しの世界は緩やかに揺れていた。