はじまり

 爪を噛むのは止めなさい。




 影とともに落ちてきた言葉に顔を上げると、人影が見下ろしているのが視界に入った。
 四角い笠の照明器具は、照射範囲が狭いせいで、室内はどこか薄暗い。
 カールした髪の毛が頬にかかっているのをぼんやりと見上げていたら、再び、爪を噛むのは止めなさい、と静かな声が降ってきた。
 怒っているのかと思ったけれど、声は静かで、その表情は穏やかですらあった。
 にこにこと愛想の良い笑みに困惑すら覚えて、見上げた相手を凝視する。
 見覚えのないその女性は、けれども此方の胸中など気に留めた素振りもなく、耳に馴染んだ名前を呼んだ。
 何度となく耳にしたその単語も、最近は呼ばれることが少なくなっていた。
 口唇から零れた音は、不意に鳴り響いた電話のベルにかき消される。
 リーン、リーン、と部屋の壁を震わせて、けたたましい呼び出し音が鳴り響く。
 木霊する音。
 誘われるように窓の外の枝葉が風に吹かれてざわめいた。
 何のことだか分からないまま、とりあえず頷かなければいけないような気がして、首を縦に振ると、人影は満足したのか足早に去っていった。
 パタパタと遠くなっていくスリッパの音。
 ベルが止む。
 バタンと閉じたドアの音の向こうで、電話に答える声がした。
 話し声は、だんだん遠くなっていく。
 階段を上る足音。
 そして、静かにになった室内。
 また一人になった部屋の中で、自分の手を広げて、じっと見下ろした。
 唾液に濡れた指先を服の裾で拭って、もう一度、見る。




 ツメヲカムノハヤメナサイ。




 きょとと首を傾げてから、周囲を見回す。
 天井近くの壁にかけられた四角い時計の中で、追いかけっこをする三本の針。短い針ほど動かない。追いかけなくても長い針が追いかけてきてくれるから、通り過ぎてもまたすぐに戻ってきてくれるのを待っているだけ。
 時計の左右に掲げられた大きな額には、読めない漢字だらけの紙が一枚ずつ。
 テレビの横の箪笥は、棚が一、二、三……、八。下から二つは、自分のもの。あとの棚は開けたことがないから、何が入っているのか知らなかった。一番上の小さな引きだしから、身体の大きな男の人が、白いタオルを取り出しているのを時々見かけるだけ。
 誰もいない室内をぐるりと見回して、立ち上がった。机の上に乗って、手の届かない棚の上の小物入れを漁る。
 先の丸くなった鉛筆。
 蓋のないボールペン。
 ハサミ。
 カッター。
 のり。
 いろいろな物が雑多に詰めこまれたプラスチックの皿の中から目的の物を見つけて、引っ張り出す。
 小さく折りたたまれた銀色の爪切りは、子供の掌にもすっぽり納まって、握り締めると手の中に隠れた。
 ひやりと冷たかった。
 机の上に乗ったついでに照明からぶら下げられた長い紐を引っ張る。
 一回引くと、少しだけ部屋の中が暗くなった。
 もう一度引くと、オレンジ色の小さな明かりがぼんやりと笠の中央で光っているだけになる。
 きょろきょろと周囲を見回して、三回目を引いた。
 開け放たれた部屋と部屋を繋ぐ障子と襖。南の部屋に近づくに連れて室内が明るい。
 てとてとと歩く。
 ぺたぺた。
 板の間のひやりとした感覚が素足の裏側に伝わる。
 ぺたぺた。
 陽の当たらない座敷の畳も板の間同様、ひんやりと冷たい。
 仏壇を横目に一番北の部屋に向かう。
 ひっそりと静まりかえった屋内。
 天井の上をばたばたと歩く足音が聞こえる日もあったけれど、今日はそれもほとんど聞こえない。
 開け放たれた窓から吹きこむ穏やかな風に、レースのカーテンがひらひらと揺れていた。

 ちゃぷん。

 気配を感じ取ったのか、網戸の向こうで、池の鯉が跳ねた。
 餌を貰えると思っているらしい。
 期待感に集まる朱色と白色の紋様を網戸越しに見下ろした。
 鬱蒼と茂った木々の葉が、降り注ぐ陽光を斑に遮る。隙間から射しこむ光が水面できらきらと輝いていた。

 ちゃぷん。

 しばらく待って、餌が貰えないと分かった池の住人は、思い思いに散っていった。
 決して広いとは言えない人工池の中をそれでも自由に泳ぎまわる姿をぼんやり見つめる。
 そして。
 辺りは再び静かになった。
 電気を消した居間に視線を向けて、誰もいないことを確認してから、使われていない一人掛けのソファによじのぼる。
 長い間、主のいなかったソファは、みしりと小さな悲鳴を上げて、軽い身体を受け止める。
 クッションのふわふわした感触が心地好かった。
 柔らかな布地に頭を預けて横になる。ごろりと身体の向きを変えては、独り占めしているソファの広さを楽しんだ。
 ひとしきりごろごろ体勢を変えて、寝転がることに飽きた頃、手の中ですっかり金属特有の冷たさを失った爪切りのことを思い出した。
 小さく折り畳まれたままだったそれをくるりと回して、広げる。
 少しだけ力を篭めて押すと、きゅいと音がした。
 身体を起こして、背に凭れかかる。一般サイズのソファは背の高さも大人用で、頭の位置が納まらず、少し窮屈だった。よいしょとクッションを自分と背の間に捻じこんで、もう一度凭れかかると、今度はさっきよりも良い感じで、知らず、口許が緩んだ。

 ぱちん。

 指先に当てて、力を入れると意外に大きな音がした。
 静まりかえった室内に響いた音に慌てて居間の方に目を向けて、誰もいないことを確認した。
 ほっと安堵の息を漏らす。
 見つかれば、きっと怒られる。
 それは予感ではなく確信。
 けれども手にした新しい玩具は、それ以上の誘惑を持って心を掴んでいた。

 ぱちん。

 二度目はもう驚かなかった。
 ゆっくり、ゆっくり、力を篭める。
 っ!
 じわりと滲んだ鮮血。
 じわじわと浮き上がってくる血をちろりと舐めた。




 金属の味がした。