温度

 ごめんください、という聞き慣れない声が、ガラガラと戸を引く音に重なって無人の玄関に響きわたった。
 バタバタと階上から駆け降りてくる足音。
 はいはい、いらっしゃい、と続いて聞こえた声は、ペタペタと鳴くスリッパの音と重なった。
 少し甲高いトーンで交わされる挨拶。
 壁一枚向こうが、俄かに騒がしさを増す。
 テレビの音量を大きくしようか考えて、一瞬の躊躇いの後、結局、指は電源を押していた。パッと光が煌めいて、一本の横線に収束する。
 人差し指が電源ボタンから離れたときには、ブラウン管はただの薄汚れたグレーのガラスと変わらなかった。覗きこんだ顔と背後の室内が、埃の下に歪んで映っているだけ。
 壁の向こうのざわめきは、さらに増していく。
 ぞろぞろと座敷に向かう来客から逃げるように、一冊の本を掴んで部屋に戻った。
 一番近くにあったのは、タイトルも知らない厚めの歴史小説で、勿論、読めるはずなどなかったが、そんなことはたいした問題ではない。ページを捲っていけるならば、電話帳だって立派に暇潰しはできるのだから。
 足を向けた先は、部屋と言っても、そこは、寝るための場所にすぎない借り物の空間。
 把手付近に小さな穴のあいた薄い障子に手をかけると、引くより先にそれは開いた。
「どうかしたん?」
 頭の上から落ちてきた問いに、早くなった鼓動を押さえながら、何もしとらん、と見当違いの答えを返す。わざと間違えていることに気づいているのかいないのか、お客さん来てるんと違うんか、と気にした風もなく尋ねられた。
 本来の部屋の主人は、腰を曲げるのも辛そうに、よっこらせ、と掛け声をかけて、僅かな段差を跨ぐ。障子の桟の一センチメートル程しかない段差。壁だったり、柱だったり、掴まれる物全てを支えにして、彼女は食卓の椅子に腰を下ろした。
 遠くのざわめきよりもはっきりと、みしり、と音がした。
 ふぅ。
 大袈裟に吐き出された吐息。けれども、それが大袈裟でもなんでもないことを知っていたから、何も言わなかった。
 代わりに、手にしていた本を傍の椅子に転がして、彼女の横に座る。
 テーブルの上に置きっぱなしだったたくあんの漬物を一枚、口に運ぶのをちらりと眺めてから、誰か来てる、と答えた。
 耳慣れない甲高い声は、居間を越えて、この場所まではっきり届いていた。
 咀嚼音につられるように卓上の皿に手を伸ばす。スーパーで売っているのよりも色の白いたくあんを一切れ、口に放りこんだ。
 口中に広がる独特の甘み。
 ああ、と呟く声に顔を上げる。
「ここにいなさい」
 少し目を細めて、寂しそうに呟く声に、ん、と、小さく頷いた。
「行ってはいかんよ」
 寂しそうに繰り返す。お前が行っても仕方ないから、と。
 二枚目のたくあんに手を伸ばしながら、こくりと頷いた。
 ボリボリ。
 口の中で噛み砕く音が、やけに大きく頭に響く。
「ばあちゃん」
 不意に二人だけの世界が砕かれた。
 パタパタとスリッパを鳴らして駆けてきて、食器棚から木製の菓子入れを取り出しながら、祖母を呼ぶ声が、頭上を通り過ぎる。
「お客さん、来とる」
 此方を見ることは一度もなく、再び去っていった声。
 よっこらせ。
 声につられて顔を上げると、大儀そうに背凭れを掴んだ腕に力を入れて立ち上がった老婆の瞳と視線が交錯した。皺々に緩んだ皮膚から覗く優しい色をした眼差しに射られる。
「ここにいなさい」
 いいね。
 穏やかな口調で念を押されて、静かに頷く。
 上下に振られた首に安堵の息が漏れる。
 重たい足取りで座敷に向かう背中を見送ると、不意に周囲の気温が下がったような錯覚を覚えた。
 じわりと溢れそうになる涙を手の甲で拭って、少女は閉ざされた障子を開く。
 広い庭に面した部屋は、昼だというのに鬱蒼とした木々に遮られて薄暗い。電灯から吊るされた長い紐を引けば、室内が明るくなることを知っていて尚、敢えて、その紐を引こうとはしない。
 ひやりと肌に纏わりつく冷気から逃れるように、自身の身体を抱きしめた。



 壁の向こう側で、華やかな笑い声が響いていた。